「アート・ヒステリー(大野左紀子)」

【書名】アート・ヒステリー

【副題】なんでもかんでもアートな国・ニッポン

【著者】大野左紀子

【出版社】河出文庫

【出版年】2012年

章立ては「第一章 アートがわからなくても当たり前」「第二章 図工の時間は楽しかったですか」「第三章 アートはそこの抜けた器」

「日本に対して西洋の住まいは、分厚い壁と小さめの開口部で「内」と「外」をきっぱりと区切るスタイルが基本です。家の中の空間も日本に比べると明確に区切られていて、それぞれの部屋の独立性が高い。絵画、そして美術という形式は、こうした境界線を強く意識しそれによって「個」をくっきりと立ち上がらせる西洋の精神風土と、深い結び付きをもっています。モダンアートはその意識を先鋭化させ、「神」なき後の世界で、自立した領域として自らを更新していく運動でした。」

「「内」と「外」を厳然と区切り「個」に収斂していく西洋美術、「物」としての美術を、「内」「外」の繋がりが緩やかで「個」も曖昧な日本は、近代化の過程で受容しました。日本における「美術」がそこで極めて人工的に立ち上がってきたものだということは、日本美術史では既に定説になっていますが、改めて強調しておきたいところです。そして、これまで述べてきた「アートがわからない」にまつわる多くも、その美術の受容で生じた歪みに起因しているのではないかと思います。」

「アートは「美術」としてインストールされ、「異物性」を排除した嚥下しやすいかたちで広がっていった。そこで美術は、社会の中心的優性価値に敗北せざる得ない者の「慰め」になり、「個性」や「自由」の賞揚はアートへの知的探求よりも「オンリーワン・メンタリティ」を育てました。」

「「異物」の「異物性」を排除したアート。日本人のアート観を語る上で避けては通れないのがヒロ・ヤマガタとクリスチャン・ラッセンです。」

「では、「社会的な承認を得る」ことをはじめとするすべての「他者の欲望」を取り去った時、それでも為される「作る行為」をどうゆうものとして捉えたらいいのでしょうか。この本のなかで私はそれを、「世界に対して受動的でしかない自己の存在を、なんとか能動的なものに作り替えようと試みる」ものとして書きました。「作る行為」は「実際何になるのかわからないが、やらずにはいられない」という欲望に駆動され、結果は「止むに止まれぬ無償の行為とそこに賭けられた闇雲なエネルギーが世界の表面に残した痕跡」でしかありません。」

などなど、断定的で十把一絡げな感じが何とも言い難いが、皮肉たっぷりで明快な語り口は読んでいて結構面白い。ただ、考えさせられる部分も多く、それは実際に現代アートの作家として活動していた経歴がものを言っているのだと思う。それにしても、「アート」は「異物」であり「美術」は「慰め」であるとは、著者独特の表現だとしても、かなり毒のある言葉だと思う。

文化は、そこに生活している人たちが創り、築き上げていくものだと思うが、同時に啓蒙していくものだと思う。美術業界のタブーであったラッセンやヒロ・ヤマガタ問題について発言していく姿勢は読んでいて小気味良い。