「「日本画」の転位(北澤憲昭)」

【書名】「日本画」の転位

【副題】

【著者】北澤憲昭

【出版社】ブリュッケ

【出版年】2003年

「「日本画」の転位とは、日本画を、「日本画」とい名の呪縛から、そして「絵画」の呪縛から解き放つことにほかならない。それはまた、近代日本に育まれた、ぼくらの生を転位することでもあるのだろう。状況は遠ざかったが、それがはらんだ可能性まで消え失せてしまったわけではない。」

「顔料と身体性の巧みな結合の例を日本近代絵画史の上に探ってゆくと、横山大観の<山路>に至りつくのだが、大観が日本画の歴史の入り口に立つ画家であるのに対して、李禹煥のしごとは、その出口を指し示していると見ることができる。とはいえ、膠絵具は決して日本画に独自のものではなく、アジアに共通のものであり、日本画というものはそのヴァリエーションにすぎないということに留意するならば、李禹煥の絵画は日本画の出口を指し示すというよりも、むしろ、その封印を解く「まれびと」のしごととして理解すべきなのかもしれない。」

「額装は、画面を現実空間から分け隔てることで、その自律を促しつつ、しかも、当の画面を現実空間のただなかに定位するという両義的な機能を負う。それに対して道具や家具は、そこに描かれた絵を現実の生活空間に親和的に位置づける。道具的関連のなかに収まるその機能形態が、こうしたはたらきをするのである。ちょうど絵の余白が、紙や絹など支持体=物質と、画面=イメージとの臨界を成すのと同じはたらきを機能形態がもつのであり、掛軸の表装は、この余白の延長として捉えることができる。」

「これに対して、諏訪直樹のしごとは、額縁を前提としない絵画の在り方をポジティブに表明するものといえるだろう。 (中略) これは、自然に向けて開かれた窓としての絵画ではなく、いわば戸口(襖)としての絵画であり、近代の「日本画」が周縁に追いやった環境としての絵画の在り方を、身体的感覚とともによみがえらせるものといえるだろう。」

かって日本画の評論と言えば、ナショナリズムを振りかざした論調のものが多かった。この本にはそれが無く、そこが新しいと言えるが、日本画の未来を見据えたビジョンを提示出来ている訳では無い。しかし、現状を見つめ広い目で分析する力が作家自身のスキルとして強く求められている時代にこそ、優秀な評論家の出現も期待されるのだと思う。