「余白の芸術(李禹煥)」

【書名】余白の芸術

【副題】

【著者】李禹煥

【出版社】みすず書房

【出版年】2000年

大学2年の時に選択した「現代美術」は李禹煥先生の授業であった。人気の講座であったため、いつも教室は学生で溢れていた。ある日、ボールペンを使いフリーハンドで紙に線を引く演習があった。普通に線を引くのではなく「描き手」と「ボールペン」の関係を意識して線を引く。「描き手」が「ボールペン」を操る関係、「描き手」と「ボールペン」が対等な関係、「ボールペン」が「描き手」を操る関係(?)を意識する。そして、「描き手」と「ボールペン」が対等な関係となり線を引く実習を延々と行った。今にして思えば、“つくることを制限し、つくらぬ外部を受け入れる”こと、つまり「つくること(文明)」と「つくらぬこと(自然、外部)」を組み合わせて新たな表現の次元を切り開く運動、「もの派」に通ずる何かを体感として感じるきっかけを与える意図であったのではないかと思う。その時の私といえば、延々と線を引いている内に行為に没頭していき、ボーっとした頭で、「描き手」「ボールペン」以外の第3者の介入、例えば自動書記のようなものはどうなんだろう、などとくだらない事を考えていた。演習の最後に数人の学生に感じた事を発表させていたが、他科の学生のまじめで高度な感想を聞きながら、自分に当てられた場合、「「描き手」が「ボールペン(筆)」を操る以外の関係があることを考えたこともなかった。」的な感想を言ったら、世界の李禹煥に、「日本画の連中は閉鎖的で何も考えていない」ときっと怒られるのではないかと思い内心びくびくしていた。あの時、手を挙げてでも素直な感想を述べていれば、きっと李先生は例えば明代の水墨画家・八大山人の線や奇想の画風に言及し、さらに印象の残る授業になったのではないか、などど思ってみても後の祭りである。

さて、「余白の芸術」について。「版画について」の章より。「いずれにしても、版と絵画の出会いの必然性を大事にすることによって、作家と版のイメージの三者を共に止揚しようとする立場とも解される。それぞれに見合う素材と方法を用いて、版との対話なり、ぶつかり合いのなかで、肉筆画とは異なる大いなる表現の世界を作り出すこと。そうゆうところに、版画の新たな存在理由を見出すことも不可能ではあるまい。」

「版と深く関わりつつも、作家の計算され得ぬ版の力、摺師の力が、絵に大きく作用してこそ真の版画が作れる。版画の複数性、無名性といった事柄も、実はそこに関連した問題なのだと思う。」

「その限り版画を、同一物の再生産-複製画と取る立場を、ぼくは擁護することが出来ない。版画は、複製技術によるものではなく、強いて言えば、全一な一品の可能性へと向かう無数の複数化を招くもの、と受け止めたい。この点、基本的には、タブローの仕事となんら変わるところがない。」

「それにしても、作家の営みがコピー事ではありえないのと同様、版画が複製画になることはない。版画は、類似性を持った複数であることはあっても、一枚一枚 作家と版との抜き差しならぬ対応のなかで出来る、純粋にオリジナルなものだ。」

「そして、もし版画を複製画と取るなら、今日の印刷ポスターこそ、複製技術時代を象徴する最高のものと言わなければならない。」

先日亡くなった画家で版画も多く制作した辰野登恵子は「版に救われる」ということを言ったそうだが、李禹煥が言う「作家と版とイメージの三者を共に止揚する」という意味と同じように思える。タブローの制作過程でも作品が作家を超えていく瞬間があると思えるが、制作の過程に於いて版画にはそれが顕著である。